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ロシアの自然と人を感じる旅…旅日誌…
シベリアツアーに参加して [塚島りえ]

9月17日から24日まで、私は「第8回サウンドバム●ロシア・ビキン川流域・タイガに暮らすウデゲ人と過ごす8日間」というツアーに参加した。このツアーは、環境NGO「地球の友ジャパン」(世界68ヶ国に広がる環境保護ネットワーク「Friends of the Earth」に参加しており、地球温暖化や森林破壊の防止などの分野の活動に取り組んでいる)の協力によって行われ、そこのスタッフの方が環境学習センターに来所されたのがきっかけで参加することにした。この旅は、私が今まで経験したものの中でも最も印象深く、また深く考えさせられることが多かった。

(9月17日)
出発の前日は実は非常に不安だった。私の小柄な体を覆い隠してしまうほどのバックパックと大きなボストンバッグ、リュックを抱えて、観光目的でないアドベンチャラスな、それこそ慣れない旅に出る。しかも、同行者20人弱とは、ほとんど空港で初対面だった。が、時間がたつにつれ「もう引き返せないのだから」と開き直り、参加者の方々とも次第に打ち解けていった。17日の午後、新潟からハバロフスクへ。少し驚いたのは、機内のスチュワーデスの女性が、めったに微笑まず、サービス精神もあまり感じられなかったこと(共産党時代、どんなに頑張ってもみんな同じ一律の賃金しかもらえなかったから、人々は必要以上によく働こうとはしなかった、その名残が今もあるんだ、という話をきいた)到着直前、広大なアムール川が眼下に広がっていた。日本の「川」とはスケールが違う。日本の「海」に近いくらいだ。ゆっくりと、雄大に、緑のなかを流れていた。そして日本から2〜3時間で着いた。現地はかなり肌寒かった。その日は、バスでホテルに移動した。ハバロフスクの町並みは薄暗く(市街地でも日本の街にあるようなネオンはほとんどなく)、工事中の建物がいっぱいで、何となくうす気味悪かった。

(9月18日)
2日目・18日はハバロフスクで、博物館を見学したりアムール川の遊覧船に乗ったりしたあと、夕方にキヤ村というところにバスで移動した。そこで本格サウナなるものを体験した。現地の人は、お風呂には入らないものの、サウナに入って汗を流すことにより体内の新陳代謝を活発化させ、老廃物を洗い流すのだという。屋外の小屋にサウナがあり、何度か入ってはすぐに外に出て冷たい空気を直に浴びる、というのを繰り返した。最後に家主の方(セルゲー)から、オークの芳香ある葉っぱで、身体にお清めをしてもらった(上半身裸になれと言われ、暗いサウナ内でバタバタと葉の束で、全身の皮膚をたたかれる…ちょっと異常な体験。がその後は肌もよくなったようで気持ちよかった)。キヤ村では、小さなペンションに泊まった。まわりは自然に囲まれ、いろいろな花や野菜が育っていた。その夜は、参加者の面々といろいろな話をし、このツアーの実に多彩な方々が参加していることを知った。特にクリエイターの方が多く、CDジャケットのデザイナー、So-netのWebデザイナー、アニメのコンテンツをつくっている人など、またNTTデータの顧問の方や、獣医さん、またシベリアの森林の問題について熱心に取り組んでいる地球の友ジャパンのスタッフ等々。ロシア人との出会いと同じくらい、同行した日本人の方々からも得るものが多かった。

(9月19日)
 翌朝、とてもすがすがしい朝を迎えた。ペンションのまわりの森や池(水が透明で、澄んでいる)を散策して、ときどき小鳥の鳴き声もきこえた。その日は午前中にシベリア・トラなどが保護されている野生動物センターに行った。シベリアでは存続がかなり危ぶまれているアムールトラを間近で見ることができた。また、ヒグマやアライグマなどもおり、彼らの鳴き声をMDで録音しておいた。そして、午後、バスで4〜5時間かけてホームステイ先である「クラースヌイ・ヤール村」へ(ここから外ではトイレなし、という生活が・・・用足しは草むらで…)。はっきり言ってぼろいバスは、何度もガタガタ揺れまくり、何にもない、ただ森林だけが広がる地帯をひたすら駆け抜けて行った。本当にロシアは広いことを実感させられる。かなり長い間バスをとばしているのに、起伏もほとんどない大地がずっと広がる、その光景はなかなか変わらず、時間が過ぎて行った。夕方になり、やっと人が住んでいるようなところにたどり着いた。そこが、ウデゲ人という民族の住む「クラースヌイ・ヤール村」だった。子どもたちが、「来たよ来たよ」とでも言っているかのようにはしゃいでいて、バスの窓越しに手を振ると、恥ずかしそうに返してくれる子どももいた。道端にはごく普通に牛や馬が寝そべっていて、そばを人が通っても静かにしている。かなり日本人に近い顔をした人が多くて、親近感がもてた。その村にはすでに、テレビ朝日の「宇宙船地球号」という番組の取材班が3人来ていた。このウデゲの人々の生活の様子や、タイガの森林の実態を取材して、1月の同番組で放送するという。(私たちの様子も映るかも!?乞うご期待。)私たちは数人ずつにわかれて、各ホストファミリーの家の前で下ろされた。私がお世話になる家では、私を含め女性2人、男性4人の計6人の日本人が泊まることになり、他の家に比べかなりにぎやかになったようだ。そこでは、ナターシャという、機転の利く気さくなお母さんに迎えられ、きちんとしたベッドも用意されていた。その家庭では、とれたての野菜や手作りの肉料理(餃子を大きくしたようなものや、鹿の肉の煮込みなど)、ボルシチをたくさん用意してくださった。もちろん毎晩ウォッカは欠かせなかった。家では、ナターシャはほんの片言の英語しか話せないようだったので、それなりにボディランゲージでコミュニケーションせざるを得なかったが、彼女の妹が地元の学校で英語の教師をしているそうで、夜に家に来てくれたときは、私たち日本人は英語でいろんな質問をして会話を楽しんだ。ナターシャの夫、ボーバ(力士のようにお腹が出ている…)に会ったとき、彼はいきなり私の顔を見て指差して、ナターシャと何か話しながら笑っていたのでびっくりした。ロシア語がわからないので戸惑ってしまう(「私の顔に何かついてる?」という感じ)。きいてみると、私がナターシャの2人の娘の妹のほうに似ていたらしい。その夜、日本人の参加者どうしで12時ぐらいまで話し込んでいたが、12時になると家中の照明がすべて消えた。特別な日を除いて毎晩消えるらしい。おかげで、懐中電灯をつけて屋外にあるトイレまで行かなければならず、就寝できるまでずっと懐中電灯をつけたままだった。

(9月20日)
 次の日は、川でビキン川を上ることになっていた。家を出るとき、ナターシャが、私たちがここの寒さを甘く見ていると思ったのか、厚手のセーターを貸してくれた。私たちはまだそれほど寒くないと思ったが、あとで思えば、川上りで想像以上の寒さを体験することとなり、ナターシャには本当に感謝したい。ビキン川のほとりに日本人もウデゲ人もみんな集合し、2〜3人に分かれてボートに乗って川を上った。川を取り囲む木々は、秋の紅葉で赤や黄、薄緑と非常に美しかった。が、その日はあいにくの天気で、ずっと雨が降っていて、全然気温が上がらない様子だった。私は寒くて寒くて、足が冷え込んだし、手袋をしていた手ごと、川の水のしぶきでぬれてしまい、話をする余裕もないほどだった。2時間ほどボートに乗り続けた後、一度川辺におりて休憩した。ぶるぶる震えて、ひたすら足踏みしていた。ポリフェノール効果(!?)なのか、お酒を飲むと体が温まるといわれて、ウォッカを分けてもらってかなり飲んだ(昼から!)。また現地の人たちがボートに積んできたパンとチーズや漬物、ジャム、クッキーなどを食べてお昼として、また気合を入れてボートに乗り込んだ。午後になると雪のようなものも降ってきて、天候は全くよくならない様子。気温も低いままだったが、さっき飲んだウォッカがかなり効いてきて、ボート上で「寒さを吹き飛ばすためには歌う!」と思い立って何曲か大声で歌を歌った(ボートの「ゴー」という音が大きいのでそれほど響き渡らない)。途中で一旦ボートをとめたときもまたウォッカを飲んだので、2回目の休憩で下りたときは酔って千鳥足になってしまった。そして午後4時頃、やっと目的地(キャンプ場所)にたどり着いた。自分たちが下ってきたビキン川のほとりに立ってみて、ゆっくりと流れる川の澄み切った水と、遠く向こうに見える山々に、とてもすがすがしさを感じた。ウデゲ人たちはあっという間に焚き火をたいて、私たちに暖かさを提供してくれる。私たちが焚き火のまわりでゆっくりしているうちに、彼らはてきぱきと食事の準備をしてくれていた。大きな鍋でことことと、魚の煮物が作られ、またごはんも炊かれていた。夕日を浴びながら川原で、各自食器を持って順番にご飯とおかずをもらい、丸太の上に腰掛けながらとれたての魚の入った夕食を味わった。もちろんウォッカも。この頃には既に雨も上がっていた。テントも設営し、寝袋の準備もしておいた。夕食の後は薄暗くなり、今度はみんなで踊ったり歌ったりの騒ぎがはじまった。「友達」という日本語・ロシア語を教えあって抱き合ったり、一緒に彼らの口に合わせて歌を歌ったり、日本人だけで童謡や歌謡曲など歌を披露したり、一緒に手をつないで輪になって踊ったりして、本当に楽しいひとときを過ごした。私は自分のボートの先導役だったボーバという猟師にかなり気に入られたようで、二人で手をつないで踊ったり写真を撮ったりした。焚き火のまわりで楽しみ、久しぶりにキャンプファイアーをした(もちろん「燃えろよ燃えろーよー」も歌った)。言葉も通じないし、踊りだって超適当なのだけど、お互いに笑いあって時間を過ごせて本当によかった。その後は顔や歯も洗えないまま、テントの中で寝袋にくるまって寝た。しかし、あまりに寒すぎて寝付けない。寝ていて震えてしまうほどだった。が、2〜3時間はうとうとできたようだった。

(9月21日)
 翌日はとてもいい天気で、向こうの山がくっきりと見えた。朝日が静かな川を照らしていた。その日の午前中は、近くの森の自然観察に出かけた。タイガ(正確にはウスリータイガといって、針葉・広葉の混交林だそう)の中に分け入り、さまざまな種類の木について猟師のニコライから説明を受けた。朝鮮五葉の松や、ヤチダモ、エゴノキ、エゾマツ、白樺などが生えていた。このビキン川流域は、珍しく手付かずのままの森林が残されているところだそうで、アムールトラのような絶滅危惧種や、湿地帯のような場所に生息する鳥たちがいるという。が、伐採による経済的発展が実は望まれており、将来の状態は未知数だという。私は、地球の友ジャパンのスタッフから、この地帯が将来マスコミ等で大きく取り上げられるようになるはずだという話をきき、この地帯の森林の問題についてもっと知りたいと思った。その後は川原に戻り、猟師の見事な包丁さばきによりとれたての魚がおろされるのに見入ったあと、昼食をとった。そして、今度は川をゆっくりと下って行った。前日と違って非常に穏やかな天気だったので、森林の風景がより鮮明に見えた。夕方、やっともとの地にたどり着いた。ホストファミリーたちが迎えに来てくれていた。家に帰ると、本当に暖かくてホッとした。ナターシャは、私のぬれたズボンをさっと干しておいてくれた。そしてその晩、寝る前に、4人の日本人で家の外に出て、夜空を見上げた。あまりに多くの星がきれいに見えたのでびっくりした。北斗七星やカシオペア座もくっきり全部見える。真上だけでなく、地平線の向こうにも見える。「地球って丸いんだねえ」と香さんがつぶやき、少しそれを実感できた。しかもただ見えるだけでなく、またたいているのがわかる。金子さんが星座の話や、恒星についての話をしてくれたので、星たちの時間的・空間的なスケールの大きさを感じた。感動して、私がMisiaの「星降る丘」を歌いだすと、また歌モードになり、みんなでエリッククラプトンの「Change the world」や「Tears in heaven」を口ずさんだ。

(9月22日)
 次の日は、年に一度のお祭りの日だった。会場に行ってみると、さまざまな民族の人たちが集まっていた。そして、村の偉い方々が、村の中でよく働いた者に、ひとりひとり表彰をし、商品を授けていた。会場には多くの子どもたちがいて、私は一緒に遊びたくて、でも言葉が通じないので、とりあえず手遊びをしようとしかけ、「アルプス一万尺」や指相撲をやった。初めは怖気づいていた子どもたちも、次第に笑顔を見せ始め、一緒に遊んでくれた。その後、村の子どもたちの踊りや民謡をみんなで取り囲んで鑑賞した。きれいな衣装をまとった子どもたちが、とてもかわいらしい華麗な踊りを見せてくれた。午後からは、村の学校の運動場で体育大会らしきものが行われた。ホップ・ステップ・ジャンプというような単純な競技なのだけど、多くの人たちが、大人も子どもも真剣に取り組み、応援していた。棒投げや重量挙げなども。そのうち何人かのこどもたちが輪になってバレーボールをはじめ、私はやりたくなって中に入った。みんな現地の人たちばかりだったが、何も言わずに入れてくれた。また、英語を勉強している子どもたち数人が、先生(ナターシャの妹)とともに寄ってきて、「子どもたちの質問に答えて」と頼まれたので、一生懸命覚えたばかりの英語で話す子どもたちの質問に、こちらもいっぱい答え、また質問をした。その様子をみて次々にたくさんの子どもたちが集まってきて、私を「RIE!RIE!」と呼ぶようになり、今度はフライングディスクの投げあいを始めた。輪になってディスクを投げたり受けたりした。久しぶりに体を十分に動かし、屈託のない笑顔を見せる多くの子どもたちと遊び、童心に帰ることができた。他の日本人から「子どもと戯れる才能があるね」、と言われ、本当にそうかもしれないと思った(他の方から「ちびまる子」呼ばわりされていたし、小さいので、私だけは参加者のなかの唯一の子どもだと思われたのかも)。そして、家に帰って夕食をとり、ウォッカをまた一杯やったあと、お祭り夜の部に出かけた(実は楽しみにしていた)。会場では大きな焚き火をみんなが取り囲んでいた。そのうち、焚き火のそばの小屋のなかで音楽が鳴り始め、ディスコ(クラブ!?)状態になった。音楽をきいただけで私は踊りたくてしょうがなくなり、リズムに合わせて思いっきり踊った。すぐに汗が出てきた。子どもたちは私の踊りを面白がって、すぐに真似してくれた。そのダンス会場の真ん中に来てしまって、中心的に踊っている人と二人でペアで踊ったら、あとで何人かから握手を求められてしまった(超テキトーなんだけど…)。私が帰るとき、子どもたちがとても名残惜しそうだった。風船にサインして、と言われてサインしたが、その数分後に風船が割れてちょっとショックだった。会場をあとにして、次の日は3時に起きなければいけなかったので、ホストファミリーに日本からのお土産を手渡し、最後の会話を楽しみ、出発のときまで寝ずに日本人の方とも話し込んでいた。結局徹夜のまま、4時ごろ迎えに来たバスに乗り込み、ナターシャの家をあとにした。

(9月23日)
 バスはまだ夜の明けない真っ暗闇のなかを、私たち全参加者を乗せて、シベリア鉄道に乗る予定の駅をめざして走った。相変わらずあまり頑丈に作られていないバスで、車内でもかなり寒く、また舗装していない道をガタゴトガタゴトいいながら走っていた。駅まではバスで5時間かかるという。途中何度か降りて、早朝の冷たい空気を直接浴びた。何にもないところ。草むらが茂っているところに降りる。次第に、薄暗く日が見えてきた。向こうの空が白々と夜明けを告げていた。まわりはどこまでも草原が広がっている。そのうち、とても奇妙な風景に出くわした。非常に高い煙突が3本にょきっと見えて、そこから気味悪そうなほど黒い煙が立ち昇っている。あたりの空が灰色か薄紫っぽい色をしている。しばらくすると、悪臭がにおってきて、車内の荷物がホコリをかすかにかぶり、バスの窓を全て閉めた。石炭精製工場だったらしい。30〜40年前の(私は生まれていなかったが)公害に侵された日本のようだ(それより悪いかもしれない)。「居住禁止区域」との看板もあったらしく、まさに人も住めないほどあたりの空気が汚染され、毒されている地域。何か対策は講じられているのだろうか。垂れ流しになっているのか。環境局の人間として、というより日本人として、とても心の痛む風景だった。バスが村を出てから4時間半、やっとルーチェルゴルスク駅に到着した。駅の構内もかなり汚れていた。1時間以上待ったあと、列車に乗り込んだ。目的地ハバロフスクまで5時間。また長い移動の旅だ。列車の内部は寝台列車のようになっていて、個室(コンパートメント)に分かれている。5〜6人くらいでコンパートメントに分かれて、ゆったりと外の景色を見たり、同席した方と何気ない会話を楽しみながら、時間を過ごした。まさに「世界の車窓から」というような風景。はじめの2〜3時間は木々や草原がずっと遠くまで広がっているという光景だったが、しばらくして人々の住まいが見えてくるようになった。途中の駅では列車が来る時刻にだけ食べ物等を売る屋台を出し、列車が出るとそそくさと片付けてしまう、そんな人々の光景もあった。夕方、やっとハバロフスクに到着した。あのクラースヌイ・ヤール村とは大違いの、舗装した道路にコンクリートの建物がある街並みに戻ってきた。その日の夕食までの時間は、フリーだったのでみんなで買い物に街へ出た(2日目から6日目まで一切お金を使っていなかった)。ロシアの物価はやっぱり安い。寒い中、食べ物屋さんでアイスを食べた私だが、1本40円くらいだ。私のお目当てのCDショップでは、店内すべてのCDが80ルーブル(300〜400円)。夕食後は、ホテルの1室で、日本人どうし7人で、深夜まで話し込んでいた。このツアーに参加されている方の人生経験の豊富さにただ驚いてしまった。

(9月24日)
 最後の日。午前中に軽くショッピングしたあと、午後には日本へと飛び立った。空港で、あのサウナのときに体をパンパン、やってくれたセルゲーが見送りに来てくれていた。いろんな思いを胸に、私は夕方、東京に戻った。

この旅で考えたこと
まず、この旅は「(第8回)サウンドバム」と銘打ってある。「サウンドバムの栞」によると、「音を聴いたり、録ったりしながらフィールドをめぐる新しい旅のスタイルの提案です。レコーダーを片手に、『音』を通じて世界各地の自然や文化を再発見」するというもの。というわけで私も、今回の旅ではMDレコーダーを借りて、旅の中で随時録音をしてきた。小鳥や動物の鳴き声、川の流れ、私たちを迎えてくれたペンションの方の演奏するアコーディオン、お祭りで歌われていた民謡、子どもたちが一生懸命しゃべった英語など…。まだ聴きなおしてはいないのだが、写真を撮ることに夢中になるより、現場の音をそのまま拾ってくるほうが、後で臨場感を持って思い出すのにいいかもしれない、と考えさせられた。
次に、人々の生き方・暮らし方について。日本人の私たちの生活は、世界から見れば本の一例に過ぎず、地球上ではいろいろ人がいろいろな様式で生活を営んでいることを実感した。ハバロフスクという街から何時間もかかるような、言ってみれば辺鄙な場所にも、人々は暮らしていて、自分たちなりのやり方で様々な工夫を凝らし、自分たちなりにお祭りなどをしながら楽しんでいる。そしてクラースヌイ・ヤール村では、あたりに店らしきものは見当たらず、自給自足の生活を営んでいる。自分たちで賄えるもので、満ち足りた生活を送り、ゆっくりと時間を過ごしている。村の体育大会のときの競技もとても単純だけど、誰一人つまらなそうな顔をせずに、みんなが集まって楽しそうにしている。子どもたちの笑顔と目の輝きは本当にホッとさせられる。「豊かさ」って本当に何なんだろうと、考えてしまった。たまたまアメリカの同時多発テロがあって、国際社会に対する関心が高まっていたというのもあるが、どんなことも地球規模の視点を持ってとらえなければいけない、と痛感した。それは工場の公害についても言える。東京都だけの、日本だけの、環境汚染について云々言うだけで、他の国々の対策が全く進んでいないことに無頓着であるなら、自分のところさえよければいいという考えに陥ってしまうし、問題の根本的解決にならない。また、この旅をきっかけに、ロシアの歴史や文化について一定の知識を得ておきたいと思った。大学時代に国際関係を専攻していた私だが、国際的な事象に今よりも関心を持って勉強していたときのことがふと思い出された。
今回のような旅は、「エコツアー」「スタディツアー」というものに近いと思う。私は3年前にインドにスタディツアーに行った経験があるが、ホームステイや一緒に踊ったり歌ったりして、現地の人とじかに触れ合うのはとても有意義だ。同時にそこが抱えている問題の現場をみることができる。また、同行する日本人の参加者の出会いもとても貴重なもの。私は、今後も情報を集めて、このような旅に参加していきたいと思う。

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