ケニア円借款案件(ソンドゥ・ミリウ水力発電事業)
地元NGO活動家から 森首相に宛てたレター


昨年12月26日、ケニアへの円借款案件、ソンドゥ・ミリウ水力発電事業に関連して地元NGOのアーグイング・オデラ氏が地元の警察によって逮捕され、7日間留置所に拘束される事件があったが、当事者であるオデラ氏から森首相宛てに彼の逮捕・拷問・監禁の事実に関するレターが出された。このレターは国際協力銀行ナイロビ支局を通じて、1月10日からケニアを訪問予定の森首相に渡されることになっている。

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ソンドゥ・ミリウ、オデラ氏の体験

首相殿

いままでこのように苦痛を伴う手紙は記したことがございません。左手中指の骨が砕けているため大変痛い思いをしています。昨年12月26日にケニア、ニャンザのソンドゥ・ミリウ水力発電事業現場付近にある鴻池組の警備員のとった行動により骨折を負いました。警官の拷問でその骨折は悪化しました。警察から私を虐待するよう命令された囚人の暴力でも悪化しました。

左肩も負傷しています。これはケニア警察が私の頭部を狙って発砲し、私の肩を掠めた銃弾によるものです。この発砲には殺意があったと私はアヘロ警察署上官であるコーラ氏によって知らされました。

彼は私に以下のことを告げました。「私の命令はおまえを撃ち殺すことだった。そうしたら、私は殺人の罪で起訴されていただろう。そして、刑務所で7年間過ごし、いづれは出所する。しかしその場合、おまえはいつ墓場から出てこられると思う?」

私は何を言っているのでしょう。事の前後をあやまってしまいました。まず自己紹介をいたします。

私は名前をアーグィングス・オデラと申します。私は人権保護運動を取り持つ立場にあり、1999年に施工された80MWの発電力をもつ水力発電事業による多大な悪影響からソンドゥ・ミリウ川を保護する活動をしております。この事業は日本政府による円借款を受けて行なわれており、20万人以上の地元住民に悪影響が及んでいます。

今回で私が逮捕されたのは3度目のことで、その理由はこの事業に対する反対運動を行なっていたためです。1999年の11月に初めて逮捕され、2日間監禁されました。そして、2度目は2000年の2月28日のこと、私とその他20人ほどが逮捕されました。このときは1日アヘロ警察署で監禁され、刑事責任を負うことなく釈放されました。

今度は私が何をしたというのでしょうか?同僚と私は12月19日にJBIC代表とJBICナイロビの事務所でミーティングを開きました。我々はソンドゥ・ミリウ事業の主な問題点を指摘し、彼は2時間にわたって耳を傾けてくれました。その後、その代表は口を開き30分ほど話をしました。

彼の口から出てきたことの1つに、我々がソンドゥ・ミリウに足を運び、被害を受けている地元住民に日本政府高官との会談の予定があることを知らせるということがありました。我々は大変な懸念を抱いていることを伝え、彼はこの事業における蛮行をやめさせ、今後逮捕されることがないように取り計らうことを保証してくれました。

こうして私は12月26日、地域住民によい知らせを伝えることができると喜びを胸に現地へと向かいました。私は特に嫌な予感もなく、ナイロビから現地に向かい500kmの道のりを運転しました。

お昼ごろでしょうか、私は荒れた道路をゆっくりと進み、近郊にあるアポコというショッピングセンターに向かっていました。その途中で、険しく風の強い道路を徒歩でショッピングセンターまで行こうとしていた3人の村民を乗せました。

そこからショッピングセンターまで半分ほど来たところで、そのうちの1人がさらに4km進んだところにある橋を渡り、川を越えなければならないと私に伝えました。その橋は鴻池組が建設したもので、この事業に関する書類によると、この橋はフェリー業者に対する地元住民の出費を抑えるという意図で建設されたものでした。

私は橋の所で警護をしていたガードマンに足止めされ、彼は私がここにいるのは好ましいことではない、私達が活動に使用する車はこの道を通ることを禁止されていると述べました。そこで、車を反転させ、またある1人の村民にショッピングセンターまで乗せて行くよう頼まれ、私は喜んで受け入れました。

12月26日の正午を30分まわった頃、ショッピングセンターに向かって折り返していました。ちょうど、橋から1kmぐらい来たところでしょうか。車体が緑で巨大なミキサー車が私にむかって大きな音を鳴らし直進してきました。左手には深い谷がありましたが、道の左側に寄って走っていました。右手は山の麓で、大きな壁のようになっていました。そのミキサー車は私のほうへと方向を転換してきました。私は右にハンドルを切りましたが、私の車の左車体はミキサー車と接触し、サイドミラーは深い峡谷へと落ちていきました。私達は砂埃まみれでした。

また別の車両、それはバンだったのですが、我々の背後から忍び寄り、道路を封鎖してしまいました。

鴻池組の警備員2人が砂塵の中から姿をあらわし、威嚇するかのように無線機を振り回していました。私はそのうちの1人がチャールズ・O・オグツ氏でもう1人がマイク・ガンボ氏だと一目でわかりました。そのとき私が耳にしたのは、「おまえが事を荒立てた張本人だ。今に火を見ることになる。」ということでした。

 

その後、オグツ氏を筆頭に警備員達が私を殴り、私は口から出血しました。それを見てショックを受けていた村民の1人が車から引きずり出され、殴る蹴るの暴行を受け谷に落とされました。私に見えたのは彼が転げ落ちるに従って消えていく白いシャツだけでした。私はすぐに車に駆け込み、ドアをロックして、窓を閉めました。鴻池組の警備員達は車に押し入ろうとして投石をしてきます。村民が鉈を持って丘の上から現れてやっと投石を止めました。その後、彼らは無線で増援を要請したのです。

午後1時半、5人の武装した警官が一台の車に乗って現れました。私は依然として2台の車にはさまれたままです。警官隊のリーダーが私に車のドアを開けるよう命令してきました。私は代わりに窓を少しあけました。そこで私の耳に飛び込んできたのはオグツ氏が車の中にいる私を撃ち殺せという命令だったのです。

「撃て、撃ち殺せ、あいつのせいでカネが入らなくなったんだ。殺してしまえ!」私が憶えているのはこの言葉だけです。

私は逮捕されるのかと警官に聞きました。そしてそれなら逮捕状を示すよう要請しました。私は窓をこれ以上開けるのが恐ろしいと告げました。なぜなら私の指はすでに鴻池組の警備員によって折られてしまっていたからです。もうこれ以上指に骨折を負うのは避けたかったのです。その警官は数歩下がり、無線で何か話していました。他の4人の警官たちは銃を装填し車を取り囲んでいます。私は熱帯特有の熱波の中、車に閉じ込められていたため、脱水症状を起こしつつありました。

午後3時半、多数の武装した警官がさらにやってきました。数えただけでも30人はいました。また、私の身に起こっていることを聞きつけ集まってくれた村民の数も増えていました。

1人の警官が自分をコーラと名乗りました。アヘロ警察署の上官です。彼は私にドアを開けるように言い、また私は逮捕されるのかどうか聞き返しました。彼は私と少し話がしたいだけだと述べましたが、私は窓が少し欠けた所から話ができる事を指摘しました。なぜなら、私は指に骨折を負っており、車の周りを取り囲っている鴻池組の警備員にまた指を折られる可能性があったからです。

彼は憤慨し、私を逮捕すると騒いでドアを開けるよう命令しました。私は喜んで署まで行くと答えましたが、警察規約の定める通り、武装した警官が車の中に入ることは許されないとも言いました。

彼がこういったのを覚えています。「自分を何様だと思っているんだ?自分を金ぐらい価値のある人間だと思っているのか?おまえの車をレッカー車で運んでやる。費用はおまえ持ちだ。」

マシンガン、ライフル、そして拳銃で武装した警官の数は膨れ上がり、50人に達していました。集まってくれた村民の数も500人を超えていました。

午後6時45分、怒った村民が現場から逃げようとした警官たちに向かって石を投げ始めました。後から聞いたことですが、レッカー車が到着して私の車を牽引する準備をはじめていました。私の車は2台の大型車にはさまれていたため、レッカー車は視界には入ってきませんでした。村民達がそうはさせないと頑張ってくれたそうです。

午後7時15分、あたりは暗闇に包まれました。村民達は暗闇の中、私に危険が及ぶのではないかと心配してくれたようです。皆は3つのランタンであたりをとてもよく照らしてくれました。彼らは寝ずの番をして見張りをしてくれました。

午後8時半頃、車体の左側で何かが聞こえました。何らかの指令が出されているようです。「車の中を狙って撃て、それで死んだら、それは気の毒だ。おまえはこっちに3発、おまえはそっちから撃つんだ。」このようなことが聞こえました。

私は恐怖に慄きました。恐ろしかった。私は助手席側の窓を開け、降伏するから村民だけは撃たないように懇願しました。次に私が見たのは、AK−47の銃口を私に向けていた黒い影です。すべてはスローモーションのような一幕でした。

私は苦笑して、こんな風に死ぬことはないと自分に言い聞かせました。私は気が遠くなり、車の床を遠くに感じ、体の左側が熱くなるのを感じました。

私の目にはガラスの破片が入り、鼻からは出血していました。金属の鼻を劈くような匂いがしましたが、おそらく火薬でしょう。道路を封鎖していた鴻池組の一台の車に近づいていくのを感じ、ドアが開きました。

一面に蛍が舞っているようでした。その明かりは醜いものでしたが。美しい黄色のはずがその光は赤い色をしていて、閃光を放っていました。村民達は大丈夫だと自分に言い聞かせてくれていたのを覚えています。しかし、警備員であるオグツ氏を乗せた鴻池組のバンの床に蹴られて入れられていたため、呼吸困難に陥っていました。車はものすごいスピードで走り、背中から誰かが私のあばら骨を殴打していました。

後で警官に100発以上の銃弾を発砲したと知らされました。そしてそれは私の懐から出ることになっていたのです。

鴻池組の車は私が逮捕された現場から15kmのところで停止しました。オグツ氏は私の歯2本を蹴って折ると脅しましたが、私のエスコートをしていた警官が彼にそれはやめましょうと述べました。なぜなら、彼らの上官が私の逮捕された際の状況を知っていたため、もし私がそれと違った様相をしてその上官の前に現れたら、彼らが免職される危険性があったからです。彼はアヘロ警察署に行けばいくらでも拷問する場所はあると述べました。私はその時点で時間がわからなくなってしまいました。

私は蹴られながらバンから出て警察署に入りました。そこでは地区の捜査官であるオティエノ氏から殴られ蹴られの歓迎を受けました。私はそのときにはもう痛みを感じなくなっていました。視界は遮られ、耳も聞こえにくくなっていました。私は銃弾で受けた傷で死ぬだろうと彼が言っているのが聞こえました。そんな時、私のTシャツが体の左側にべっとりとくっついているのに気づきました。濡れていて寒く、しかしそれを見ることが出来ずにいました。眼球を動かすと、ひどい痛みを伴ったからです。

私は服を剥がされ、裸にされた状態である部屋に連れていかれました。そこで警官は私を建設現場爆撃の容疑者に仕立て上げようとしていたのです。オティエノ氏とその他の警官が私にソンドゥ爆撃事件容疑者だと自供する準備はできているかとききました。私がノーというと、警官は私を鞭で撃ちましたが、体の震えが止まらず痛みは感じませんでした。

そのときに他の指が折れていることに気づきました。誰かが口を割れといいながら、指をつかみ捻じ曲げました。そのときは本当に痛みを感じ、叫び声をあげてしまいました。警官の1人が私はジャーナリストとしてもう二度とタイピングが出来なくなったといいました。誰かが私の傷ついた肩を殴りました。また痛みで我慢できず叫んでしまいました。誰かが叫ぶのをやめて「マロ!(高く!)」という童謡を歌えと要求してきました。その歌を知っていましたので、殴られる度に痛みを肩と指に感じながら歌いました。歌いながら、体は殴って蹴っても構わないが指と肩だけはそっとしておいて欲しいと願いました。

オグツ氏が私の未来はもうおしまいだ、なぜなら彼は警官隊と共に村民のところへ戻って男達に発砲し、女達をレイプするからだといったのが聞こえました。もうこれ以上は許されないと思いました。

午前1時頃、私は留置所の中に押し込まれたのだと判明しました。他の囚人達には私を叩きのめすように指令が出されていました。私は政府にとって厄介な存在だったのです。留置所に入るなり、殴られ、引っかかれました。そのとき囚人達は私の指がおかしなところにあり、折れているのだと気づきました。私の指を折ってしまったと思ったのでしょうか、彼らのうち5人が私を押さえ込み、指を引っ張ってもとの位置に戻しました。私は痛みで叫んでしまいました。その叫びを抑えるため、汚れたじゅうたんが私の口に突っ込まれました。そして次に彼らは私の目の中にガラスの破片がたくさん入っているのに気づき、また私は押さえ込まれ、彼らのうちの1人が私の眼球をなめました。そしてし尿を入れるバケツに吐いていました。今回はじゅうたんを口に押し込まれたくなかったので、叫ばずに唸りました。私はその後、唇の傷やひどい切り傷の手当てを行ないました。

しかし、私は彼らがしてくれたことに感謝しています。彼らは私のシャツを剥ぎ、銃弾の傷を診てくれました。そのうちの1人は傷が乾くように歯磨きペーストを傷の上に塗ってくれました。そしてなにがあったか彼らは私に聞いてきました。

翌日、私はいっぱいになったバケツを空にするように命令されました。裸、裸足で私は汚れたトイレに向かい、目も半分しか見えない中、し尿の入ったバケツを空にしました。その日遅く、私は独房から出るよう言われました。そしてまた歌う事になると知らされました。

私は痛みに絶えながら拷問の行なわれている最中にも歌わされました。今回は捜査官であるオティエノ氏の姿も見えました。彼が拷問の指令を出していました。突如、警官全員が拷問の手を止め、敬礼しました。ドアのところに立っていたのは諜報高官でした。彼が直接議会と大統領に報告する役目を担っているのです。私は他の部屋に連れて行かれ、そこでは、この人はやさしかったのですが、ある男性が私に4時間かけて尋問を行ないました。彼は私を殴ったりはしませんでした。彼は私の好きなセックスのときの体位などを聞きました。

この日は公式に鞭打ちが終わった日でした。しかし、署の司令官であるコーラ氏はまだ10発の鞭打ちが終わっていないと私に言い聞かせており、医者に見てもらい、服を返して欲しいという私の要請は却下されました。私はジーンズを返してもらっただけでした。

12月28日がきて、我々は独房の人々と親しくなりました。床を掃除するため水が運ばれてきました。牛耳る立場にある囚人達は虱のうようよいる床を掃除する人々に仕事を振り分ける前にその水で自分の体を洗っていました。

29日には、私にもその権利が与えられ、汚れた水で体を洗うことが出来ました。石鹸も使うことが出来ました。他の囚人達は羨ましそうな目で見ていました。

同日、私はアヘロ警察署から移送されました。私は弁護士を巻き込んでの闘争に持ち込むことを検討していました。私は30km離れたキスム刑務所に身柄送還され、外部との連絡を絶たれたまま独房に監禁されました。その後また50km離れたマセノへと身柄を送られました。

ここでも医者に見てもらいたい、風呂に入りたい、太陽の光を仰ぎたいという要求は跳ね返されました。私はここで2000年の1月30日と31日を過ごしました。私の居場所を知っている人は誰もいません。マセノでは拷問は受けませんでした。起きて寝るだけの生活で、水があまり供給されなかったことから体重が激減しました。

そして時は過ぎ、12月2日のこと、私は傷つき痛い目に遭い法廷に召喚されました。私は逮捕拒否、暴力行動の煽動、不法侵入、写真をとり虚偽の情報を日本に流していたという容疑で起訴されました。

私がこれらすべての罰から学んだ事は何だったのでしょう?私は痛む傷を押さえながら頭をひねりました。そしてある結論に至りました。ソンドゥ・ミリウの人々の思いは永遠に消えることはないということが私の答えです。

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