サンロケ多目的ダムプロジェクト
イバロイ族人類学者によるエッセイ
「サンロケダムと南部コルディレラ」



パトリシア・O.アファブレ
1999年1月22日メリーランドにて

 
前略
    以下は、ここ2週間ほど話題になっているサンロケダム問題に関する論評のいくつかに対する回答です。これからアグノ川Agnoの歴史について少し語ろうと思いますが、長文のほど失礼します。マリアン、ランバート、アートのみなさん、いち早く連絡してくれて、南部コルディレラ地方の住民の強制退去という問題を提起していただき、どうもありがとう。またバギオ市の住民の方々には、サン・ロケについてこんなにいろいろな情報をいつも送っていただき、一同たいへん感謝しております。

    最初に、私の立場はダルピリップの住民を支持し、サン・ロケ・ダム建設に反対するものだということを明言しておきます。この点に関して1997年に初めて私の決意とその事情説明をマスコミに発表しましたが、それ以来諸般の変化があっても、なんら考えを変えるにはいたりませんでした。

    アグノ川にかかる3番目のダムに対する抗議運動は私が子供のころに始まった。1956年、私の母セシル・アフェイブルは当時いわゆる「文化的少数民族」を担当する「技術アシスタント」という任務に就いていて、ダム建設用地の視察や住民聞き取り調査のためにイトゴン中心部からダルピリップやテポまで馬に乗って行った。それから間もなく、(アグノ川沿岸の住民がその名声を懐かしんでやまない)マリアーノ・フィアンサとカリクスト・フィアンサがマグサイサイ大統領に、アンブクラオとビンガの住民がこうむった不幸をダルピリップとその近隣の住民たちには繰り返さないでほしいと訴えに行ったとき、彼女もこれに同行した。ラモン・マグサイサイはテボにアグノ第3ダムを建設しないと公約し、私の母はその誓約の最後の生き証人となっている。

    アグノ川のこのあたりを訪ねたことのある人なら、第2次世界大戦中ダルピリップがこの地方の「穀倉」と呼ばれていたことを意外に思わないだろう。この地方に出没したゲリラの多くも同じことを言っているし、ダリピリップ産の米はヌエヴァ・ヴィスカヤヤ西部など各地に運ばれていったのだ。戦後数年間この評判はゆるぐことなく、テボを救うという決定にも何らかの影響力を果たしたのだが、最近ではすっかり影がうすくなってしまったようだ。しかし戦時中に米を輸出することができたというその生産力のおかげで、この流域がいかに広く、流域の村がこの地方一帯にとっていかに重要であるかという認識が生まれた。アグノ川の地図を子細に見れば、その広大な区域がすでに2つの水力発電ダムに供されているため、この区域ではカバヤン北方のブグイアスルー地域までさかのぼらないと広い稲作平地は見つからないことがわかるだろう。

    フィデル・ラモスも大統領在任中にイトゴン町にアグノ第3ダムは建設しないという同様の公約をした。マグサイサイの後40年以上もたってから、まさかアグノ第3ダムがわずか数キロ下流の、政治的にずっと安全なお膝元というか、ずばりラモスの出身州に計画されようとはもちろん誰も思いもよらなかった。そのおかげで、起工式はラモスの任期切れのほんの数日前にたいした反対もなくすいすいと進行することになった。

    私の故郷バギオ市から約100キロ離れたダタ山から始めることにしよう。ダダ山高原はかつて巨大な湖があったところだ。その湖を涵養していた熱帯雨林が2世代前から消失してしまった。ここはアグノ川、アンブラヤン川、チコ川、アブラ川源流の水源にあたる。(あるいは、ハルシマハイウェイを北へ向かい、タベヨ、アトック、アバタンのあたりで、その東方の峡谷の上流と下流を眺めれば、このことが納得できるだろう)。当地の粗放式段々畑ではとりわけジャガイモの栽培が盛んで、ここでとれるジャガイモがフィリピンや近隣諸国にあるジョリビー<注:フィリピン最大のファーストフードチェーン>やマックなどのレストランで大人気のポテト・チップやフライド・ポテトになる。(このことはマレーシアでも同様である。あちらでは「オラング・アスリ」という原住民の故郷であるカメロン高地などの高地地方がやはりフライド・ポテトの広大な供給地にすっかり化けてしまった)。わが国は国内の高地で生産されるジャガイモだけでは足りず、さらに大量の冷凍フライド・ポテトを輸入に頼っている。

    フライド・ポテトを食べ始めたのはいつの頃からだろうか? 実際それほど昔のことではない。しかしこのおいしいスナックを食べたいという欲望のために熱帯アジアの各地で山あいの村々が姿を消していったのだ。そこでハルシマ街道を100キロメートル南に行ったあたりで最近こんなジョークがある。結婚したいという若者が、水牛を1頭持っていないと、「オマエ、FX<注:フィリピンで人気が高いジープ型の一まわり大きい貨客両用車>ヲモッテイルカ?」 ときかれるのだ。そこでFXを手に入れるいちばんの近道は「パタタス(ジャガイモ)」をつくって儲けるという答えとか。<注:フィリピンの伝統では、結婚を申し込む男が水牛を1頭持参して披露宴に供しなければいけなかった。現在、当地の主要収入源は市場野菜栽培で、主要作物はジャガイモである>。

    棚田農業、森林伐採、上流の鉱山採掘、流域の植林計画の失敗などを原因とするアグノ川の赤土浸食の無残な姿を、カバヤンとボコドBokodの間のアダオアイに行くと、さっそく、実にはっきりと見ることができる。この地域に暮らしたことがある人には周知のことでもあるが、ベッケル東部からヌエヴァ・ヴィスカヤ州境やボボクやカラオの奥の尾根筋まで、これらの山々を縦横に走るトロッコ軌道のどれもこれもがこれらの山々から切り出された松材を片っ端から周辺の金鉱山へ運んでいった。南部コルディレラ地方の人々が代々家畜を育てて生計を立ててきたということもわれわれの記憶に新しい(二毛稲作をするにはここは標高が高すぎるし、川沿いで粗放式の棚田農業をするには山合いに十分開けた土地が少なすぎる)。つまり山の斜面を定期的に野焼きして新しい牧草が生えるようにしてきたのだ。

    アダオアイに行くと、アンブクラオ水域がアンブクラオ・ダムの貯水湖として画定された1950年当時の湖岸線をはるかに超えて上流まで上昇し、広大な水田と豊かな農地を水没させてしまっていることがまざまざとわかる。これはすべて大量の沈泥がアンブクラオ・ダムの背後に堆積したことによるものだ。1990年この地域と下流のボコドにある集落は暴風雨と地震後の山崩れに押し流されて全滅した。1950年アンブクラオ貯水湖の建設が計画された地域の上流および外側にあたる、ボコド町内のティケイ、ナワル、バンガオ、その他の地区住民約600世帯は、拡大のやまないアンブクラオ流域の河川のせいで水田や野菜畑や屋敷を失った。

    とうとう2つのダムに到着する。ここでは、立ち退かされてさらに貧しくなったイバロイ族の世帯とか、移転計画の失敗とか、土地や財産に対する政府補償の約束の不履行など、かれこれ50年も繰り返されてきた話がどこにも転がっている。

    ビンガを通りかかったら、右手西側を見てほしい。そしてここで南部コルディレラ地方(マンカヤン-スヨとサント・ニノの外側)における大規模な商業ベースの金山を見ながら、この産業の歴史を、それが開かれた20世紀初頭からずっと想像してみてほしい。アグノ川西部の支流域と(ケノン街道沿いの)ブエド川から産するこの金のおかげで、フィリピンは一時世界第9位の金産出国だったことがある。また第2次世界大戦前にバギオがアメリカの小さな飛び領土になったのも、この金のせいである。もしバギオ東部からバスに乗ってアグノ川に到り、そこを渡ってヌエヴァ・ヴィスカヤ州境まで行ったことがあれば、今世紀初頭以来アンタモク、アクパン、バギオ金山、フィレックス、ベンゲット探査会社、イトゴン、ベンゲット連合などの金山ですべてのたて坑を支えるために使われた材木がいったいどこから供給されたのか、除去され処理されたあの土はいったいどこへ運ばれてしまったのか、また今もなおどこへ運ばれているのか、金の製錬工程で生じるあのシアン化物はいったいどこへ運ばれているのか、などがわかるだろう。もしこの地域を飛行機で通るような機会があれば、その際1990年の地震で生じた尾根上の大きなツメ跡を見たり、アンタモク金山の巨大な採掘場と樹木がぜんぜんない周辺の山並みをきちんと見たり、これらのはげ山からアグノ川に流れ込む濁流を眺めたりしてほしい。

    イトゴンとダルピリップはこれらのずっと下流にある。ここの住民たちが心の中で見ているものはこの荒れ地の(過去の)幻影である。上流の金鉱山は、アンブクラオ・ダムとビンガ・ダムがどうにも対処しきれない量の沈泥をアグノ川にたれ流してきた。イトゴンの住民がまだ自分たちの文化とか遺産を口にするなんてたいしたものだ。それは並たいていのことではない。というのも家畜は川の水を飲めないし、川沿いの水田はシアン化物を含んだ沈泥が流れ込むし、森は大木が全部切り倒されてしまって、地面が乾き、するとこんな所に育つのはルーノとコゴンという草だけなので、それらが伸び放題になっているのだ。70年代と80年代における松ヤニに対する需要のために、鉱山で必要な材木が切り取られた後のこの流域でそれまでまだわずかに残っていた松の木が根こそぎ抜かれてしまったことも忘れてはならない。

    パンガシナン州の住民はこのほんの少し下流で、一方は山岳部、他方はルソン島中央部を流れた火山性泥流の後の荒れ地に挟まれて暮らしている。台風が南部コルディレラ地方を襲ったり、この数ヶ月間で何回かの豪雨のときあったように、アンブクラオ・ダムとビンガ・ダムへの流水圧が高まり危険になったりすると、フィリピン電力会社(NPC)はダムの吐水口を開く。ラジオ放送で開門が実際に通告されることもあるが、それはアシンガンとウルダネタUrdanetaの住民に警告を与えるためとか、翌日彼らが脇の下まで水にどっぷり浸かって歩き回るはめになろうとも、警告を受けていたのだから仕方がないと思わせるためなのである。プカプカ浮いている豚の死体のそばにバングス<注:この地方で捕れる代表的な食用魚>が泳いでいるところを見ても、ここはパンガシナンなんだぜ、と地元の人から言われるような土地柄なのだ。

    バギオはどうかというと、私がバギオ・イバロイ族の者だと名乗ると、みんなは笑いだす。それは、バギオに深いルーツをもつ「原住民」なんて誰も想像できないからである。(「つまり、ほんとは、あなたはどこの出身者かな? きっとベンゲット州のどこかの人だね?」という調子だ)。コルディレラ地方のこのあたりを旅行すると、イバロイ方言、カンカナイ方言、カラングヤ方言、アイウワク方言I'uwakを話す老人たちに会って、その親たちの話を聞くことができる。彼らの親たちは労働者集団を組んで、ケノン街道を建設し、鉱山を開き、製材所の要員となり、中国人や日本人が経営する農場で農作業に就き、ハルシマ・ハイウェイを建設したのである。1910年には、生えている大木をすべて取り除かずに、(当時の計画だった)25000人規模の都市を建設することは不可能だった。

    これら開拓者たちの子孫の多くが今日ケノン街道に沿って都市の郊外や付近の山里に暮らしている。中には家畜を連れて東方のヌエヴァ・ヴィズカヤ山脈へ行った者もいたし、山を下りて近代都市へ向かった者もいた。当時は、東部熱帯雨林に住む焼畑農民の場合、急斜面の土地が多くて金山やバーンハム公園から遠かったために、強制的に立ち退かされることはなかった。今ではバギオ市は復活祭週間ともなると20万人もの人口をかかえることになるが、当局の誰一人として、次の世代に必要な水をどこから確保するのかわかっている者はいない。

    軍キャンプ地跡のジョン・ヘイ特別保護区は市最大の水源地で、かつてはその面積の50%以上が松林でおおわれていたこともあり、現在一般の入山は禁止されている。この措置によって近年われわれ一般人には高嶺の花になっている五つ星ホテルや大型ゴルフコース建設のためにここの樹木が切り倒されることもなくなって、みんなほっとすることになった。現在ある計画は、アジア主要諸国から来てラオアグ国際空港に到着する新婚旅行客をバスに乗せ、ポロ岬の免税店などをちょっと回ってから、最後はここに連れてきて、健康によいことで有名なバギオの気候を満喫しながら人生の節目となる休暇を楽しんでもらうというものである。サンロケパワー社のパンフレットによると、ヘドロに含まれるシアン化物の除去が終われば、数年後に新婚旅行客たちはヘリコプターでサン・ロケ湖のほとりに降り立ち、休暇を延長してバス釣りや水上スキーに興じることができるようになるだろう。予想では、ラオアグ空港の利用客を輸送するのに連結式のバスが12台必要になるだろうとも言われる。だが、われわれに今いちばん足りないものといえば、せいぜい郵便局の隣りに12階建ての駐車ビル2棟である。

    私たちを養育し教育してくれた親たちはみんなボボクの製材所で働き、ダタ山周辺を開拓し、市場向けの野菜を栽培し、鉱山やダム現場で働き、材木会社やセメント会社の下請けをしたような人たちばかりである。これらの重労働はちょっと指を差して指示するだけの仕事とはわけが違う。アグノ川の物語は、南部コルディレラ地方に暮らす全住民にとってそれぞれの人生の核心にある。もしチコ川やアブラ川とその支流を経由してここまで来たならば、ダタ山からその北と西へ歩いて行ってみよう。地面に耳を当てて、川の流れの轟音や鉱山の地響きを聞くがよい。南部コルディレラ地方も今やほとんど略奪され尽くしてしまったので、コルディレラ地方の中央部へ、久しぶりにそこの他の河川水系や山間部の流域へ移ることにしよう。イブラオ川、アリミト川、ラムート川方面をめざす人は、東に向かい、ポリス峠を越え、通りがかりのトラックに積まれたセメント袋をじっくり見てほしい。このセメントは運ばれていって、観光ガイドが世界の八不思議と指摘する代物の壁を支えることになる。ほんのこの半年で、イフガオ族系のカラングヤ族の故郷でありラムート川の源流部に当たるティノック町の広大な地域が切り開かれてジャガイモ畑になってしまった。わが国の主要河川の源流地帯がポテトフライのためにブルドーザーになぎ倒され踏みつぶされたのだ。

    われわれが受けたしつけと教育には、わが国の国土、海や川、国民、文化の歴史に関心を持たせてくれるものがとても少ない。あまりにも長い間、そんなことはフィリピンの世間の常識ではどうでもいいことだと教えられてきた。南部コルディレラ地方における大規模な浸食と森林破壊、人口増加による圧迫、地下資源の乱掘に対して、われわれはなすすべを知らされていなかった。仮に森林から水を確保することができなくなった場合、われわれを導いてくれる偉大な人々さえいれば、バギオの水問題は解消するだろうと、みんなが期待するのも無理はない。ありがたいことに、私の両親は植林に対して信念を持ち、ちゃんとそれを実行したのだが、しかし一流域をまるまる植林するのは彼らにも不可能だった。

    サン・ロケの植林問題はビンガやアンブクラオの植林とぜんぜん別々のものだと主張する人がいる。土砂堆積の問題は上流と下流で事情が異なるというのだ。彼らの言動を見ると、アグノ川はあたかも二つあり、地図上に見えるパンガシナン・ベンゲット間の州境界線がダムの水をそこでせき止めて上流へはさかのぼらせないといわんばかりである。またこれはダルピリップの問題であるとかイバロイの問題であるとかいって、だからパンガシナン族の者やイロカノ族の者には係わりがないのだ、アグノ川支流域へ引っ越してイバロイ族の親類の者と一緒に細々と鉱山採掘をしているカンカナエ族の者などなおさら無関係だ、というのだ。水没するのは3戸か12戸かとか、川が上流に向かって上昇するのは3マイル先までか12キロメートル先までか、などつまらないことでもめる者が幹部たちの中にもいる。これらの白黒については、次の環境アセスメントの結果がフィリピン政府から公式に発表されるまで待てと言われて、そのままになっている。

    アグノ流域の山肌はすっかりはぎとられてしまった。金と銀の相場が下落して鉱山の景気は一時的に悪くなっているものの、それも長続きはしないだろう。さらに次の露天掘りのためにブルドーザーがいつ到着したらよいかなんて事業上の相談を誰も受けるわけがないだろう。ビンガとアンブクラオの経験は誰が見ても一目瞭然である。山河を破壊すれば、そのはるか下流の低地一帯も破壊することになるのだ。

    長文にもかかわらず、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

パトリシア O.アファブレ

[筆者パトリシア・O.アファブレ氏は、フィリピン大学人類学科卒、現在はワシントンD.C.にあるスミソニアン協会に勤務する文化人類学者。この覚書は一部省略され、『アグノ川とそのダムの歴史に寄せて』というタイトルでバギオ・ミドランド通信紙上に1999年1月31日、2月7日、2月14日の3回に分けて掲載された。]
(中村民雄訳  1999年11月23日)

 

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